September 06, 2004
翻訳夜話 / 村上春樹・柴田元幸
最近どうもこの「翻訳」という言葉に、めっきり弱くなってしまった。もちろん村上の影響が大きいのだが、はたして一読者として、翻訳あるいは翻訳家そのものに興味を持つということは正しいことなのだろうかということを考えないわけにはいかない。つまりオリジナルテキストこそが、唯一選択の要素ではないのかという疑問だ。
この本は、作家村上春樹と東大助教授柴田元幸の対談+学生or若手翻訳者とのフォーラム形式での会話を収録した形式になっている。この本は翻訳に対する技術指南の本ではない。この本を読んでわかることといえば、二人がいかに翻訳が好きで、翻訳という趣味に対して真剣に向き合っているかということぐらいだと思う。村上自身「自分がどうしてこれほど好きで翻訳をするのか、それを考えてみる場を持ちたい」と言っていたように、本の内容は非常に個人的かつ趣味的なので、明らかに大衆に向けられた一冊とは言いがたい。それにもかかわらず、本を読むのが好きな人、特に海外の文学が少しでも好きな人には一読の価値がある。
大筋としては、翻訳者として先輩である(年齢的にも5つ上)村上が話し手の中心となり、柴田がそれをフォローしつつさらに質問し(あるいはフォーラムの参加者との間に立ち)話を引き出すというポジションで、話が進むという形である。
さて、いったい文章を翻訳するという作業のどこに、二人はそれだけの魅力を感じることができるのだろう。二人にとって理想の翻訳とは、オリジナルテキストにどこまで忠実に沿ったものであるかということだ。翻訳という作業においてテキストは、2つの言語間を移し変えられるだけのものであり、翻訳者の意思としてのプラスマイナスは介在するべきではない。ただテキストの持つリズムや空気をそのままに、違う言語媒体に移し変えるという作業が翻訳なのだという。それだけを聞くと、翻訳作業の何が魅力なのか、余計にわからなくなるような気もする。しかし、テキストに忠実にあるということは、テキストにひっそりと寄添い、その声を聞きもらさないということに他ならない。誰よりも個人レベルにおいて、テキストに身を深く沈めるという作業は、一つのテキストを理解するという意味において、読書の一つの究極の形と考えることができる。これは考えてみれば羨ましい体験である。もちろん、それを仕事として成立させることができるのは、何をおいても二人の確かな才能の成せる技と言える。
この本のもう一つの面白さは、忠実な翻訳の中から浮かび上がってくる翻訳者のスタイルを垣間見ることができるという点だ。もしオリジナルテキストから、一言一句変わらない翻訳しか生まれないとすれば、それは完全な翻訳である。しかし、どこまでも自分の影を消したとしても、翻訳者の存在を文章から消すこともまた不可能なことだ。そうして現れる翻訳の“ひずみ”は、彼らがテキストに忠実で、ストレートで、シンプルであるからこそ、翻訳の味として楽しむことができる。そこにもう一つの翻訳の魅力が浮かび上がってくる。その具体的な例としてこの本には、村上訳のオースターと、柴田訳のカーヴァーの短編小説の"競訳"が、オリジナルテキストとともに載せられている。同じテキストが二人の翻訳者によって、どのように捉えられ、表現されたのかを見ることができる貴重な文章である。微妙なニュアンスが醸す、温度の差をはっきりと感じることができて非常に面白い。
というわけで、はじめの自問における、翻訳や翻訳家に対して興味を持つということは、少なくとも間違いではない、というのがぼくの答え。優れた翻訳を楽しむのも一つの読書の形であると。
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