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January 15, 2007

くっちゃんにて

 随分と遅いですが、明けましておめでとうございます。今年も夢の中で年を越しました。

 相も変わらず仕事の方は大して忙しくもありませんが、ちょっと時間ができるとスキーに行ってばかりの有様で、ブログの事が頭の隅の方に追いやられている始末。

 というわけで、先日ニセコに行ってきました。シーズン券があるのでいつもルスツでばかり滑っていましたが、今回は会社のスキー部が出しているスキーバスというのに便乗しました。生まれて初めてのニセコ。ニセコはテレマーカーにとっては聖地のような場所で、高梨穣とかがその辺を滑ってるんじゃないかと思ってキョロキョロしてましたが、以外とテレマーカーは少なかったです。その代わりに多いのが外国人。中でもオーストラリア人です。客の約半分は外国人で、外国人のインストラクターが外国人の子供を教えている姿を見ると自分がどこにいるのかわからなくなりそうです。ここ数年の誘致活動が功を奏してきたようで、倶知安(くっちゃん)町はオーストラリアンマネーで潤っているのではないでしょうか。向こうは日本と違って、長期の休みとかが取りやすいんでしょうね。

 問題は、スキー場の食堂で「この食券はここに並べばいいのかい?」と(もちろん英語で)聞かれた時の一言です。TOEIC400点強のぼくには「これは丼ものの券だから、2つとなりの列に並ぶんだよ」などととっさに返せるはずもありません。

December 25, 2006

個人的なニュース

 今日は個人的な読書人(と自称することを許していただきたい、僭越であるけれども)として、比較的大きな出来事な事があったので、急に書き込みをすることにした。一種のニュースのようなものだと思っていただきたい。それで文面も多少気持ちをあらためている。


 一つは、村上訳の「グレート・ギャツビー(偉大なるギャツビー)」が出版されていたということだ。『不朽の名作は存在しても、不朽の名訳は存在しない』というのは、村上春樹にとっての信念で、「キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)」の時にも時代による洗い出しのような使命感が一部にはあったようである。特にアメリカ小説は世界的には歴史が浅いものの、日本人のアメリカに対する通俗的観念は時代々々による劇的な変化があったといえるのだから、当然といえば当然のことだ。

 しかしこの本の出版が重要なのは、村上春樹が「グレート・ギャツビー」の翻訳を自らのライフワークにとってとりわけ(あるいは極めて)重要なポジションに据えていたフシがあったからだ。緻密で流麗な完成された文体を若くして表現することができたフィッツジェラルドは村上にとってまさしく"天才"である。その作家の骨頂にあるとも言える「ギャツビー」の満足できる翻訳を完成させるということは、翻訳家としての完成を意味するのではないか、つまり翻訳家としての本の出版はこの作品が最後になるのではないかと、(勝手に)想像していたのだ。どうしても、作家"村上春樹"の終わりが近づいている様な気がして寂しくなってしまうのだ。

 今年は、村上がフランツ・カフカ賞を受賞したことで、現実的なノーベル賞への感心も高まっているようだが、そんなのは冗談じゃない。日本人ノーベル賞作家などという肩書きは大江健三郎が生きている間は彼一人で十二分だ。これ以上大層な賞などで作家を騒がせたりせずに、自分のペースで執筆できるようにしておいてもらいたい。これはファンの一人としての心からの所願である。


 もう一つは、今日の朝日新聞夕刊の追悼記事で、作家の小島信夫が亡くなられたことを知ったということだ。享年91歳で、肺炎のためということである。ぼくの読書コースからすれば、とりわけ重要な位置にあるというわけではないのだが、それを置いても小島さんが亡くなられたというのはきわめて残念と言うほか無い。

 所謂「第三の新人」として、現代作家の中でも良く名を知られていたが、後年は評論家としても活躍されたし、翻訳家としてもサローヤンやホーソン等を手がけられていた。なかなかに掴み所のない人だった様で、その文体や内容もはっきり言って今のぼくには掴みようがない。どこまでもリアルにも感じるし、読み終わってみれば全てが空想的に感じることもある。

 いつか小島さんの作品をしっかりと読んで、まともなレビューが書けるようになったらチャレンジしてみたいと思う。ともあれ、今はご冥福を祈ります。


 しかし、この二つの出来事は、本来もっと早い段階で知っておくべきだった事柄だ。「ギャツビー」の出版は11月10日だし、小島さんが亡くなられたのは10月26日である。いくら古本屋にばかり足を運び、テレビを見ないでニュースにも関心を持たないからと言って、流石に考えものだ。

December 20, 2006

この冬の過ごし方

 12月になってからというもの、休みになるとスキーに出掛けてばかりなもので、ネットが繋がったというのに更新も滞っております(言い訳)。

 今シーズンはシーズン券を購入してしまいましたので、あとは滑りまくるしかないという多少異常なテンションで、山の方を仰ぎ見ている日々です。苫小牧から車で1.5時間という時間でホームゲレンデのルスツに行くことができるのだから、関西圏に住んでいた頃を思えばほとんど夢のような環境ですね。

 恐いのは車の運転。この前札幌テイネに行ったときに初めてABSが作動するのを体験しました。ABSが働いているのはわかるのに、車はツルツルと滑っていきます。そんなにスピードも出していなかったのに… 何とかこの冬を生き延びて劇的にスキーが上達したいものです。

November 23, 2006

はやいはやい

 実に8ヶ月ぶりに、生活空間にまともなネットワーク環境が復活しました。
様々な事情の末に、待たされたFTTHによる接続は結局不可能なことになり、ADSLでの開通となりました。こんなことなら初めからADSLで話を進めておけば3ヶ月は早く繋がったのに…

 それにしても通信カードによる100kbpsでの接続は本当に遅かったです。こういう接続環境にいると様々なサイト側のレスポンスの速度(ページの重さ)が手に取るようにわかります。例えば検索サイトをとってもGoogleは軽かった。伊達に検索サイトNo.1では無いと思います。逆に見る気もしないのは企業のサイト。お金をかけているのは良くわかるのですが、flashやjavaに懲りすぎていて非常に重かったです。ADSLになった今となっては、遅い早いの区別もつきません。いい事なんだろうとは思いますが。

 チェックしていなかったサイトも多々あるし、自分のページ関連の事も疎かになっていたので、とりあえず身の回りを確認し直して整理したいと思います。

 手始めというわけでもないのですが、最近うまく表示されていなかったネコ温度計を新しいflash版に更新しました。いつの間にかflash版に更新されていたんですね。自分のサーバにファイルを置くことにしたので、前よりはトラブルが少なくてすむのかもしれません。しかし肝心の天気と気温が表示されない… まぁネコが動いてるからいいか。

November 13, 2006

クローディアの秘密 / E.L.カニグスバーグ 松永ふみ子訳

クローディアの秘密 
岩波書店 / 岩波少年文庫, 1975

 子供の頃に読んだ本をどれだけ憶えているかと聞かれても、情けないことに本のタイトルを思い出すことも困難だったりする。一年前に読んだ本の記憶すら朧にしか無いのだからそれも仕方ないと諦めてはいる。「西遊記」「アラビアンナイト」から「吾輩は猫である」といった、今の読書におけるバイアスを考えれば至極まっとうな本も児童用の文庫で読んだはずなのだが… そんな昔読んだ本の中でも取り分け記憶に鮮明な本が「クローディアの秘密」だ。

 多少話はずれるが、NHKみんなのうたで昔放送されていた「メトロポリタンミュージアム」をご存じだろうか(あるいは現在も放送されているかもしれない)。作詞作曲は大貫妙子。昔も今も変わらず大好な曲です。

  ♪バイオリンのケース、トランペットのケース、トランクがわりにして出発だ
  ♪タイムトラベルは楽し、メトロポリタンミュージアム ~

歌だけでなくアニメーションも魅力的だった。一貫して仄暗い雰囲気だが、姉弟が夜中の美術館を冒険しながら、突然ミイラと踊り出したりする様は夢想的で一種エキゾチックであり、子供心にも刺激的でウズウズとさせられたのを憶えている(※)。そしてこの歌のオリジナルこそが「クローディアの秘密」である。実際にはこの本から大貫妙子はインスピレーションを受けたということらしいが、姉弟がバイオリンやトランペットのケースをトランク代わりにして、メトロポリタンミュージアムに忍び込むというのだからほとんどそのままといっても失言ではないと思う。

 もちろんこの本のことをよく憶えているのは、「メトロポリタンミュージアム」のことがあったからだとは思うが、最近になって不思議と読み返したくなった。子供の頃には内容を消化しきれていなかったということもあるかもしれないけれど、やはり単純に何度も読み返したくなる作品だし、その価値があるからだろう。子供の頃にも何度かは読んだ。しかし、今回読み返してみた印象は、それまでとは随分と違うものだった。率直なところ、主人公であるクローディアとジェイミーの意思や感情が以前より率直で鮮明に映ったというところだろうか。前述のように、ぼくは昔の記憶をそれほど鮮明に留めているわけではない。それでも当時はこの二人のキャラクターをあまり身近なものには感じていなかった。二人の考え方や行動には程度の差こそあっても、決して子供らしいとは言えない部分があるからだ。どちらかと言えば二人を中心に展開される、メトロポリタンミュージアムでの奇譚を単純に楽しんでいたのだろう。それが、今回は二人のことを含めて随分とすっきり消化することができたと思う。15年以上も年を喰っているのだから当たり前だろうとは思わないでほしいけど…

 それにしてもこの姉弟はなかなか奇妙な存在だ。二人は必ずしも仲の良い姉弟としては書かれていない。にもかかわらず、クローディアは家出のパートナーに何人もいる弟の中からジェイミーを選び、ジェイミーはクローディアの計画ならばと(特に家出をする必要があるわけでもないのに)、話に乗ってくる。人格どうこうという以前にお互いの個の能力を自分には無いものとして認め合っているからだ。この姉弟が奇妙なのは、それを率直に口にし、行動に表すことにある。成人した姉弟間でならともかくやはり不思議な関係にある。この話の中では、姉弟のコンビ芸は一つのキモになっている。二人は基本的にシリアスだし、状況は常に切迫している。だが、それ故に二人の掛け合いは漫才そのものだ。真剣になったクローディアにはジェイミーが、ジェイミーにはクローディアがつっこみ、会話の方向を是正したり、あるいは内容をちょん切ってしまうのはまさに漫才の妙である。

 さて、もう一つのキモとも言えるのがタイトルにもなっているクローディアの秘密に関すること。クローディアはこの話の初めから秘密を持っていた訳ではない。そもそもがクローディアが秘密を持つに至るストーリーだからだ。クローディアの秘密を知ったときには、読者は秘密を持つことの意味そのものに驚かされる。秘密が秘密であることの意味に対して。この点から見れば、この話は終始クローディアの成長記と読むこともできる。何故クローディアは家出したのか、何故メトロポリタン美術館でミケランジェロの天使の像に固着したのか(このあたりの細かいストーリーは割愛)、そして秘密がクローディアをどのように変化させたのか。

 児童文学という先入観からすれば、文章も平易でわかりやすく書かれていると考えがちだが、カニグスバーグの文体はその点では少し違う。良い意味で媚のようなものが無い。表現はシンプルで(そっけなく)、必要なことが必要なときに必要なだけ語られている。それだけにそこに描かれる景色はよりプリミティブであり、そこから漂う空気の匂いやザラつきは五感で直接感じることが出来るものだ。夜のメトロポリタンは「メトロポリタンミュージアム」のような夢や幻想などではなく、どこまでも夜のメトロポリタンとしての決して穏やかとは言えない魅力を感じさせてくれる。

 この本は間違いなく、子供に向けて書かれた児童文学である。そうは言っても、この作品が児童文学に収まりきらない、誰にでも楽しめることが出来る作品であることも疑いはない。今回のレビューはまったくもって児童文学に対するものとは呼べないような内容になってしまったが、読む側とすればなにも物語の逆変換を試みたり、追懐の感に浸る必要は一切ない。そもそも児童文学などという括りで作品を縛りつけようとしたことが間違いなのだ。


※実際にはこの歌はあまり子供に人気があったとは言い難い様で、多くの子供には"怖い"という印象を与えたらしい。薄暗い雰囲気もさることながら、歌の最後に姉弟が飾られている絵の中に閉じこめられてしまうというオチがあったのも理由のようだ。考えようによっては確かにホラーじみているかもしれない。

October 22, 2006

あふについて

 ウェブ上の日記や雑記的なページを見ると(要するにこのページみたいなものです)、ニュースや他のページの文章を引っ張ってきているのをよく目にします。まぁブログにせよMixiにせよ、他の人との相互リンクによるネットワークで成り立つようなツールが流行っている以上あたりまえの話ですが。

 前回の書き込みでも少しだけお気に入り商品(HHKB)の紹介に引用文を用いましたが、味を占めて今回も。

ありがたい事に「是非お金を払いたい」という申し出を今まで何度か頂きました。
…が、全て丁重にお断り致しました。

私はあふの制作を『趣味』だと考えています。
確かに手間もお金も相当掛かっていますが、趣味にそれらを注ぐのは普通の事ですよね。
また X68k 時代にフリーソフトで環境を揃えて快適なパソコンライフを送る事が出来ましたので、それらを制作された先人達に対するリスペクトの意味もあります。

勘違いしないで頂きたいのは『シェアウェア』等を否定するつもりは全くありません。
私も一応職業プログラマですのでタダ働きするつもりはありません。
本人が『仕事として』手掛けたモノに対価を求めるのは当然でしょう。

 引用の仕方としてはかなり唐突でわかりにくいですが、上の文章はぼくがファイラとしてかなり重宝し、無くては生きていけないかもしれないと思うようになった『AFX(あふ)』の制作者であるAKTさんが書かれていたモノです。あふ制作開始から9年が経った際に書かれたあふに関する雑記に含まれていました。なかなか素晴らしい主張だと思います。

 ぼくはAKTさんの意見には100%賛同しますが、同時に「是非お金を払いたい」と申し出た方の気持ちもわかります。フリー、有償を問わずソフトウェアで遊ぶのはぼくの趣味の一つですし、特にフリーソフトに関しては開発者の方々にはいくら感謝しても足りないと思っています。本来であれば自分も優れたソフト作り、フリーで公開することが一番の'お返し'であることはよくわかるのですが、如何せんぼくにはそれを実現するだけの知識や技術はありません。結局具体的な形で返報するには、「お金を払う」というのが一番現実的な手段になります。"フリーだけどカンパ求む"というのも良く見かけますが、この方のように「趣味だから」と、あっさりカンパの申し出を断るというのはそれほど簡単なことではないはずです。

 いささかしつこくなりますが、『あふ』は素晴らしいファイラです。確かに取っ付きづらいかもしれないけれども、それはこのようなファイラの概念に慣れていないだけだと思います。いったん慣れてしまえば、エクスプローラーに首まで浸かったWindowsの風景もずいぶんと違って見えるようになるのではないでしょうか。というわけで、せめてもの恩返しとしてぼくはソフトの紹介をしてユーザーの拡大を図っている次第です。


追伸

 会社の研修で東京に行ったとき、沢野ひとしがイラストを描く車内広告を見ました。相変わらずのワニ目の男と、その後ろには女が何か呟いているという構図。一目見て間違いようがない沢野ひとし的純度の高いイラストで、電車内で一人うれしくなりました。

 しかしいつものことながら、沢野ひとしや安西水丸といったポストモダニズム的ヘタウマイラストレーターは、男は適当に女は丁寧に描いているとしか思えないですね。一筆々々に込められた愛情の差を感じます。

October 14, 2006

誰が買うのか

 前に'Happy Hacking Keyboard(HHKB)'というキーボードについて書いたのですが、今回はその続きです。というわけで今回もあまり一般的な話ではありません。

アメリカ西部のカウボーイたちは、馬が死ぬと馬はそこに残していくが、どんなに砂漠を歩こうとも、鞍は自分で担いで往く。馬は消耗品であり、鞍は自分の体に馴染んだインタフェースだからだ。
いまやパソコンは消耗品であり、キーボードは大切な、生涯使えるインタフェースであることを忘れてはいけない。
[東京大学 和田英一 名誉教授]

 というのがHHKBのコンセプトらしいです。キーボードそのものは、最近のゴテゴテした多機能なものではなく、キー数は一般的なフルキー101に対して60キーという最小限で、代わりにファンクションキーがデフォルト状態でかなり効果的に配置されています。aの横がCtrlであるなどUNIX系でプログラミング用と言っても差し支えないと思います。

 HHKBにはいくつかのシリーズがあって、5,880円のLight2と24,990円のProfessionalがあったのですが、この度新しいシリーズであるProfessional HGが発売されたようです。全てオーダーメイド注文で262,500円のノーマル版とと朱金の輪島塗りによる525,000円のJapan版。Light2とProfessionalとにある機能的な差は、このHGシリーズではそれほど追加されていません。要するに高級万年筆のノリ。Japanの方はと言えば無刻印(キーボード上の文字が一切刻印されていない)しか用意されておらず、なんかもうのっぴきならないところまで来てしまった感じですね。

 以前キーボードに関して、キーボードにいくらセンスを出しても社会的なステータスにはなりにくいというようなことを書き込みましたが、ここまでくると少し考えを改める必要があるかもしれません。使う場所も相当限られる気がします。少なくともぼくが使っていても大丈夫な代物ではない。

 製品そのものがある種のボケなので、もし買う人は大金をはたいた洒落だと思われないように注意した方がいいと思います。