January 27, 2005
加田伶太郎全集 / 福永武彦
加田伶太郎(かだれいたろう)といってピンとくる人は少ないかもしれない。福永武彦の持つ第二のペンネームで、この名で名探偵・伊丹英典(いたみえいてん)シリーズを発表した。そもそも作品数が多くないため、「加田伶太郎全集」という形で福永武彦の著書の一冊として存在しているというわけだ。
福永武彦は昔から(といっても数年前だが)よく読んでいた作家で、文庫で手に入る作品が多くないので、昭和文学全集などに散逸している作品を集めては少しずつ読んでいたのだが、しばらくの間この加田伶太郎の存在を知らないままだった。ぼくは作品に目を通しても、作家にほとんど目を向けないタチなので、作品の先入観から福永武彦が相当なミステリマニアであるということを知らなかった。実は、中村真一郎・丸谷才一との共著で「決定版 深夜の散歩」というミステリ読本を出しているし、ボードレールやポオの翻訳にとどまらず海外のミステリの翻訳も手がけていたりする。これらもまだ廃版ではないようだが、手に入れていないので未読。
しかしこのように、純文学作家のミステリ好きが嵩じてミステリを書いたという例は他にも多く、芥川龍之介・谷崎潤一郎・坂口安吾あたり一般にも有名なようだ。
読者の立場としても「加田伶太郎全集」の中身については、完全に福永武彦の作品とは別物であると割り切って読むべきだろう。あらすじとしては『文化大学古典文学科の助教授で、自ら安楽椅子探偵を以て任ずる伊丹英典氏は、ワトソン役の研究室助手久木進君を伴い、お得意の分析力・想像力・論理力を駆使して、あわや迷宮入りかと思われた難事件・怪事件を颯爽と解決する』ということでウェブの書斎から拝借。加田伶太郎としての文章は、非常に簡潔で、必要十分な文章で物語が語られる。キャラクタの心情が不必要に詳細に読まれるということもないし、言い訳がましい事件の動機の追求もほとんど出てこない。ある意味では古典的な文脈展開ではあるが、ミステリというジャンルを成立させるための、必要十分条件を備えた文章だといえる。伊丹英典にしても、あえてステレオタイプ化させた脚色で、ストーリーを侵食しないという配慮がされている。これは一見、小説家としての福永とは対極にあるように思えるのだが、実際には福永の小説を読むと、文体や語彙に、小説のストーリーからくるイメージとは多少かけ離れたストレートで実直な面を垣間見ることがあるので、加田伶太郎という人格も、あくまで福永の一面がフォーカスして顕在化たものではないかと考えられる。
しかし、これは逆に考えてみると、今の世に出回っている、一般にミステリと呼ばれるジャンルの文章は、ミステリに従順であろうという虚飾に満ちたものが横行しているのではないかという気にもなってくる。それほど同時代のミステリを読んでいるわけではないので、あまり一般化した話はできないのだが、もしこの文章がミステリとしての脚色をされていなければ、なかなか面白い本なのにという作品もいくつかある。また、それらの本がもしミステリという体裁を持たなければ、人気も売れ行きもそれほどではないだろうということも容易に想像できる。このあたりが、ミステリというジャンルがミステリであるが故に内包する一つの問題ではないだろうか。ミステリをミステリとして、正しく評価するというのは非常に困難なことだ。
ちなみに、加田伶太郎は『だれだろうか』、伊丹英典は『めいたんてい』のアナグラムということが、福永自らの文で書かれている。この辺りの、自分でばらしてしまうトコロや、バックグラウンドの適当さは、ミステリ作家ではない福永のテレ隠しというか気負いの無さに由来しているように思う。あるいは、ミステリファンには物足りない作品かもしれないが、福永の作品を読んだことがある人なら、一度目を通しても損はしないと思う。