September 24, 2004
大王 / 黒田硫黄
黒田は現在の漫画の中にあって、作品をカテゴライズすることができない漫画家だと思う。そのため、"漫画"を読むことに慣れている人間には、非常な違和感を感じないわけにはいかない作風をもつ漫画家と言えるだろう。
この本は、黒田の初短編集であり、雑誌「アフタヌーン」に投稿したデビュー作「蚊、その他の短編」から、1999年までの短編作品が収められている。一見するとわけのわからない作品や、方向性を見出しにくいのが原因で、ずいぶん見劣りする作品も収録されている。しかし、CUEに掲載された、手塚治虫の「メトロポリス」のカヴァーや、同じくCUE掲載のよしもとよしとも原作の「あさがお」、それに非漫画誌掲載の「西遊記を読む」、においては既に黒田の漫画家としての一つの完成を見ることができる。
黒田に対しては、その作品のわかり難さ(情報へのアプローチの不親切さ)にもかかわらず、多くの人が賛辞を送っている。中でも、寺田克也がこの作品の帯に寄せたコメントは的確に黒田の作品を言い表していると思う。「ここには、綺麗な絵も、綺麗なストーリーもない。ただ綺麗な漫画があるだけだ」と。この「綺麗な漫画」という表現が当てはまる作品は、現在では黒田の漫画ぐらいのものではないだろうか。
黒田の漫画が持っている"違い"は、ラディカルであることに由来するものではない。手塚治虫以降の漫画のフレームに捕らわれない、あるいは取り払おうとする漫画作品は数多く見られる。しかしそれらも、漫画を漫画として認識させるための手法としてのイデオロギーを取り払うような類のラディカルさを有するものではない。その結果として、今日の市場で見られる漫画は、自分自身をカテゴライズすることで読者との距離を自ら規定するような手法に従う作品が大半を占めている。一方で、黒田の作品にはそれが見られない。彼は作品を漫画として規定するための、手段や表現を用いていないし、そもそも持ち合わせていないようにすら見える。その結果として、例えば、動きを持たないコマによるスピード感や、間を無視したかのような在らざるべき台詞による展開というようなものが彼の作品には存在するのだ。
黒田の漫画は、黒田の漫画としてしか捉えることができない。このような漫画が教えてくれるのは、本来漫画という媒体が持っているはずの価値と可能性である。カウンターカルチャーとして、漫画そのものを示すことができるからこそ、黒田の漫画は"綺麗な漫画"と表現することができるのである。
作品ではなく作家紹介になってしまったが、ここで『大王』の中でも一番お気に入りの作品である「西遊記を読む」について少し。雑誌『本とコンピュータ』に黒田の文章とともに連載された作品。"おっさんがムズムズする漫画"を目指したと黒田が言うとおり、すごくムズムズさせられたし、最後はグサリとやられた(すっかりおっさんになった気分になる)。大学教員と思しき中年男と若い女が『西遊記』の読書会で、その読み方を語り合うという、漫画としては在り得ないようなシチュエーションである。なぜ(ウソ話を)読むのか、現実には旅に出られないから。男が同床で見た夢は、行き倒れそうになる三蔵(己)に悟空(女)が現れ、西天を指差すというもの。このシーンの印象は初めて読んだ時から強烈に頭に焼き付いている。目を離せなくなるほどの引力をもつシーン(コマ)の存在も、黒田の漫画が有する特徴と言える。表紙を含めても8ページという短い作品であるが、一つの作品としての存在感は「大王」の中でもピカイチだ。
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