March 08, 2005
神戸在住 / 木村紺
「神戸在住」は、辰木桂(たつき かつら)という関東出身の女子大生を主人公とし、彼女を中心とした何気ない日常を描いた作品である。桂は、内気で異性との付合いがあまり得意でなく、絵や本が好きで、わりと痩せぎすな女性という、ある種の典型的な女性像として描かれている。関東の人の視線から見た神戸という異文化での生活、あるいはキャンパスライフや絵・本・音楽をキーワードとした人と人との広がり。そのような要素が、言ってみれば一元的な物語の骨子となっている。
しかしここまで自分で書いておいてナンだが、これだけでは「神戸在住」のどこに魅力を感じるのかまったくわからないのではないだろうか。まあ、こういった要素だけでも「神戸在住」は作品として十分に成り立っているのだが、この「何気ない日常」などという言葉は多くの場合、想像性の欠如から自身の身の回りを題材にした作品を生み出す作家に与えられるキャッチの代名詞みたいなものだし、女性漫画誌でならともかく、男性誌において受け入れられるはずがないようなフレコミにしか聞こえない。
実際に物語に目を通しても、何の変哲もないと言ってもおかしくないような日常の風景が描かれている事に間違いはない。しかし、時間をかけてストーリー、人物、背景描写にまで気をくばって読むと、少しずつ、本当にゆっくりとだが、自分が知っているはずの漫画のパースとの差に違和感を憶える。神戸在住的に表せば、『心の静謐な高鳴り』という感じ。それは、読み進めるにしたがって、この作品がフィクションであるという無意識の大前提が理解できなくなってくる、と表現すればいいだろうか。つまり、辰木桂とは木村紺自身であり、作者の追想をそのまま緻密に描いたノンフィクションなのではないかという疑問を覚えるのだ。もちろん、この作品がフィクションだということは、読み進めれば随所でわかることだが、ますます目を疑ってしまう。聾唖の男の子との会話、仰ぎ見ていた人物の死を受け入れるために要する時間のトレース、何も起こらない風景。このような描写を漫画で表現し、作品として成立させることができるということが、どれほど希少であるかは他の漫画を少しでも思い浮かべれば容易い。老若男女を問わず、自ら確立した世界を持つ多くの登場人物が、作者の頭の中で現実の世界を箱庭にして、一つの物語を紡ぐようにして描かれているのだろうか。しかし、そこから生まれる価値は、世界のリアルさではなく、個々のベクトルの統一感から来るものだ。
この作品で、ぼくはフィクションという言葉の意味を考え直すことになった。フィクションというと、虚構の世界であり、どちらかというと想像力が書き手から乖離たものが生み出しているという先入観を知らず知らずのうちに持っていたように思う。『リアルさ』を保ちつつも『有り得ない』程に、虚構が肥大し現実から遠ざかったものに評価を与えていたのではないかと。しかし、物語が力を持っているかどうか、それはフィクションであるかどうかという問題ですらないのではないだろうか。ファクタとしての真実が生み出すフィクションも、逆に虚構が生み出すノンフィクションも、物語としての差異は無い、というのがぼくの意見である。
少し作者や既刊の単行本についての紹介を。作者の木村紺はそのプロフィールをほとんど公開していないため、年齢、性別、あるいは個人であるかどうかすら不明である。ただし本作がデビュー作なことは間違いない。一冊の単行本は、その厚さに対して読むのに時間がかかる上、漫画としては文字数が多いため、一冊ずつゆっくり読んだ方が楽しめると思う。中でも、桂の友人の恋人である中国系二世の林(りん)をメインとした、神戸の震災時のボランティアの話が納められた3巻は秀逸なのでお勧め。
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