October 25, 2004
月世界へ行く / ジュール・ヴェルヌ 江口清訳
おそらくはSFの創世に大きくかかわった人間の一人といっても差し支えないであろう、かのジュール・ヴェルヌの代表作のひとつである。「80日間世界一周」「海底二万里」と並んでメジャーな作品だが、サイエンスフィクションとしての骨子となるべき要素を最も強く持ち合わせているのは「月世界へ行く」ではあるまいか。SFの一本目なのでなるべく根本に近いところを選んだ。
この作品はフランスで、およそ140年前に書かれたものであることを考えると、この作品中におけるヴェルヌの科学的知識に基づく数々の表現には感嘆すべきものがある。地球と月の径および質量からロケットの弾道を計算したり、さらにその初速を割り出すというようなことは、およそ古典力学の完成されていた当時もちろん可能ではあるだろうが、文章表現上にここまで緻密に練成されたものを生み出すことが容易でないことは、140年たった今でも読めばわかることだ。
しかし一方で、月の山々に関する情報が坦々と書かれているような、抑揚にかけた表現に辟易するということもしばしばある。あるいは宇宙空間でロケットの窓を開け、不要物を放り出すシーンなどは、現在の常識的見地からすれば、一笑に付すという場面である。しかし時代の経過に伴うこういった一般認識の中に生まれる大小の差異は、あたかも政治や文化面における歴史からでは窺い知ることのできない、当時の人々の一般認識としての感覚を間接的に写す鏡のようなものである。
もうひとつヴェルヌの小説に特徴的なのことは、登場人物たちの精神的な強靭さと意思共有レベルの高さである。ロケットの軌道が極めて月の表層近くを通過するにもかかわらず、ロケットが月へは着けない可能性が大きいことを乗組員たち(二人のアメリカ人と一人のフランス人)は知ることになる。月に到着することがそのまま彼らの開けた未来をもたらすことになるかどうかは作品中においても不確定であるが、月に着かないということは、そのままロケットと共に広漠な空間を漂うことを意味する。そんな中で気分屋のフランス人も理屈屋のアメリカ人も、すぐに訪れるであろう不明瞭で暗鬱たる未来に落胆したりはしない。ただその瞬間にすべきことをするために、眼下を過ぎてく月の表面をつぶさに観察することにのみ全力を傾ける姿がとても印象的に書かれている。そのような彼らの様子は、SFの基礎が、サイエンティフィックな知識的要素よりも、フィクショナルな冒険譚にあるということを示している。
ヴェルヌの名は、心理学上で『ヴェルヌコンプレックス』という言葉が存在するように、机の前で空想するタイプの人間の象徴である。彼のテーゼは冒険と空想だ。この作品はその絶妙の融合を垣間見ることができるという点で、未だに大きな価値を持っているのだろう。とりあえずは、もう少し他の作品も読んでみようと思う。
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